1st|2010
開催概要
趣旨
小金沢智
名だたる芸術家の歴史的作品の数々を前にして、「もはや私ごときが描く必要はあるまい」と筆を折ることは簡単で、自らの歴史的立ち位置を理解しているのであれば、それはむしろ正しい振る舞いなのかもしれません。
けれども私が見たいのは、それでも止むに止まれぬ衝動が、身体を駆動させ、〈描かざるをえない〉ようなものたちの作品です。たとえ歴史家や批評家が、「そこには歴史性/創造性/技術がないではないか」と評しようとも、そんなことは当人にとっては大した問題ではありません。ただ、ひたすらに描く。その強い衝動こそ、私たちが展覧会を作り上げる動機に他ならないのです。
ガロンは、市川 裕司、大浦 雅臣、金子 朋樹、小金沢 智、佐藤 裕一郎、西川 芳孝、松永 龍太郎の7人からなります。それぞれの作品や行為が液体のように混ざり合い、一つの場を生み出す同士でありたいと私が名をつけましたが、果たして初回となる本展でどれだけの場を出現させることができるでしょうか。
もとより整った場は望んでいません。
が、荒れ地には荒れ地なりの太陽を見出すことができなければ。
展覧会概要
展覧会名称:ガロン第1回展
出品作家:市川裕司、大浦雅臣、金子朋樹、佐藤裕一郎、西川芳孝、松永龍太郎
コーディネーター:小金沢智
会期:2010年6月11 日(金)-13 日(日)、18日(金)-20日(日) 計6日間
時間:11:00-19:00
会場:瑞聖寺ZAP ギャラリー|〒108-0071 東京都港区白金台3-2-19 瑞聖寺内
主催:ガロン実行委員会
助成:公益財団法人 野村財団
協力:瑞聖寺、佐藤国際文化育英財団・佐藤美術館
オープニングパーティー:6月12 日(土)17:00-19:00
アクセス:都営三田線・東京メトロ南北線白金台駅2番出口より徒歩約2分/JR山手線目黒駅より徒歩約10分
アーカイブ|会場写真|撮影:島村美紀
会場記録写真|画像上より:市川裕司、大浦雅臣、金子朋樹、佐藤裕一郎、西川芳孝、松永龍太郎
アーカイブ|「ガロン第1回展を終えて」|執筆:小金沢智
6月21日、瑞聖寺ZAPギャラリーでの「ガロン 第1回展」の搬出を終え、この文章を書いている。二週末のわずか6日間の開催で582名もの来場があったことをありがたく思いつつ、しかしそれだけの期待に応える展覧会ができていたかというと、いささか心許ない。その原因は私の立ち位置とも少なからず関係していると思うから、まずそこから書いていきたい。
ガロンというグループを構成する7人のうち、作家でないのは私だけだ。そのため、私がキュレーターだと思われることもしばしばだが、私はキュレーターではない。グループの発起人は金子朋樹であり、金子と松永龍太郎の二人が中心になって、他の4名の作家ー市川裕司、大浦雅臣、佐藤裕一郎、西川芳孝ーが選出されたからだ。私はすべての作家が集まった段階で金子から声をかけられ、アドバイザーのような形でこのグループに加わった。2008年秋のことだ。その段階でグループ名や展覧会の会期・会場は決まっておらず、私がガロンという名称はどうかと提案したのは同じ年の暮れだった。由来は「開催にあたり」にも書いたからここでは繰り返さない。金子と松永がこの名前のないグループを立ち上げたのは2007年12月のことだから、今回の初回の開催まで約2年半が経っていることになる。
告白すれば、キュレーターではない形で展覧会開催に関わることの難しさを、当初私はまったく理解していなかった。だから、以前一度会った事があるだけの金子からの誘いを受け、佐藤以外知らない作家たちのグループに、メンバーという形での参加を決めた。大学・大学院と日本美術史を専攻してきた私は、かねてから現代の作家と供に何かできないだろうかと考えていた。美術史を机上の問題だけで終わらせたくなかった。
しかし、私は金子から作家ではない立場の人間からの意見を求められたものの、私が集めたメンバーではないから、グループ(展)としてのコンセプトを作り難かった。金子と松永は、1:同世代であること、2:意欲的な活動をしていること、の2点を大きな柱に作家に声をかけており、それは「日本画」という作家の出身を除いて彼らの作風や制作上の思想に類似点が認められることを必ずしも意味しない。
度重なるミーティングの末、結局本展ではコンセプトを決めないということに落ち着いた。決められなかったと言った方が正確かもしれない。私の開催にあたっての文章も、そのため抽象的なものになった。会場は、瑞聖寺ZAPギャラリーの1階、そして通常はギャラリーとして使用していない2階和室をご住職のご厚意で使わせていただいたが、作品の配置も基本的には作家の希望通りとなっている。作家に与えられた唯一の条件は、未発表の最新作を発表すること、それだけだ。
ただ、この時の私は、グループ展といえども最終的な評価は個々の作品に帰結する以外ありえないと考えていたから、それぞれが希望する場所で最高のパフォーマンスができればそれでよいと考えていた。その根底には日本美術史上の「日本画」を巡る諸 問題が関係していて、私はもはや「日本画」という言葉を軸にした上で展開される、「日本画」の滅亡や、新しい「日本画」といった、実は内輪内の動向の堂々巡りに辟易していた。そこに横たわっているのは、歴史は進歩すべきであるという発展史観にほかならず、それは私には、日本画出身者にかけられた〈呪い〉のようにも思えた。したがって、日本画のグループとしてのコンセプトを打ち出さないということは、そのような輪の中に私たちは入らないということの、したたかな意思表明でもあった。
けれども、始まってみて気づかされたのは、コンセプト不在の甘さである。確かに作家はそれぞれ意欲的な最新作を出している。しかし、それだけだ。グループ展としてのまとまりは乏しく、作家が最新作を出しているということ以上の本展の意義は見出し難い。確かに、個々の作品をしっかりあ見ることができたという声も聞いた。だが、「ガロンとはどういうグループなのか?」、「なぜこのメンバーでなければならなかったのか?」、それらの問いに答えることのできる展覧会にはなっていない。足を運んでくれた人たちの中には、そこを知りたいと思う人たちもいたのではなかったか。
第1回展を終えた今、私たちはこの反省を元に、次の段階へと進む必要がある。その結果、グループから抜ける人間もいるかもしれないし、新しいメンバーが入ってくることもあるかもしれない。または、「第1回」としたもののこれで終わりになることもあるかもしれない。なんにせよ、第2回展を行うならば、それは今回とはまったく違うものになるはずだ。本質的な意味で次に繋げていくために、私たちはグループとして変わっていく。そうすることで、新しいなにかを掴み取りたいと願うからである。
メディア
福住廉
「ガロン第1回展」artscapeレビュー2010年7月1日号
https://artscape.jp/report/review/1216000_1735.html